さよならBL短歌 1(短歌にBLの場面を見出す)

 2012年から、縁あってBL短歌合同誌『共有結晶』に書いたり編集のお手伝いをしたりしていました。同誌の刊行は2018年のVol.4をもって刊行が区切りとなり、2021年10月末日ですべての頒布が終了しました。
 一時期、BLと短歌のことばかり考えたり話したりしていたことが嘘のように、いまの私には何も言うことがありません。先のことはわかりませんが、しばらくは、新たにBLと短歌について何かを書いたり、短歌からBLや百合やその他さまざまな物語を展開して遊んだりすることはないと思います。

 BL短歌にまつわる私の最後のテキストとして、『共有結晶』がきっかけで2017年から2018年にかけて書いたものの、日の目をみることがなかった文章をここに置いておきます。
 いろいろありましたが『共有結晶』は私の世界を大きく広げてくれました。出会い、関わってくださったみなさまに、心から感謝いたします。

パーティーの前にトイレでキスをして後は視線をはづす約束 黒瀬珂瀾

 特別なひとときのために華やかに設えられた会場の、これから始まるという期待に満ちたざわめきを少し離れたところで感じながら、静かな化粧室で二人きり向かいあう。パーティー会場の照明は趣向を凝らしてあるけれど、トイレの蛍光灯はやけに白く、ただただ明るい。そのこうこうと明るいなかでキスをする。誰かが入ってこないうちに、すばやく。
 パーティーと名のつく華やかな場はいろいろある。イベントのオープニングやのセレモニー、新製品や新作発表のレセプション、文学賞や映画祭の授賞式、オールナイトのクラブイベントや野外でのレイヴ、いっそ宮中晩餐会でもかまわない。
 個人的にはロック・バンドのライヴの打ち上げというシチュエーションをまっさきに思い浮かべたが、たとえば二人が同じバンドのメンバーであるなら、パーティーの最中「視線をはづす」ほどに距離をとるのは逆に不自然であることに気づく。視線すら交わさないなら、当然、言葉も交わさないだろう。人前では他人のふりをするような間柄なのだ。二人ともバンドマンだったとして、おそらくあまり仲が良くない(ということに表面上なっている)別々のバンドのメンバー、とするほうが自然だ。フィギュアスケートの国際試合のあとのバンケットを舞台に設定するならば、きっと二人は同じチームメイトではなく金メダルを競い合う熾烈なライバル同士になるだろう。少々悪趣味だが、結婚式の披露宴の、新郎と列席者というパターンもありえるかもしれない。表向きの関係が新郎の友人であれ新婦の同僚であれ、花嫁の目の前で花婿と見つめあうのは憚られるに違いない。
 わざわざ「視線をはづす」ことを約束するのは、ひとびとと談笑しながらもつねに相手の姿を探し、目で追ってしまうから。お互いにそうするからどうしても視線が合ってしまうし、合えばそのまま絡んでしまう。絡んだ視線を振りほどくことにすら痛みを感じてしまう。だからあらかじめ薬をのんでおくようにキスをして、他人のふりで過ごす数時間を耐える。
 とはいえ、この歌の二人は自分たちの関係性という秘密を愉しんでいるようでもある。トイレでキスをすることも、やむを得ずの行為というよりは、会場と隣接している場所で、会が始まる直前にキスをするというスリルを楽しんでいるようにも見える。公にできない、人目を憚る恋に苦しんでいるというよりは、集まった客とにこやかに会話しながら、おまえたちは知らないだろうがほんとうは俺たちはさっきトイレでキスしてきたんだ、とひとびとを出し抜いている優越のようなものすら感じる。
 この歌には登場人物の性別についての情報はないので、二人の組み合わせは女と女、男と女、そのほか、自由に読める。いまこうして書きながら、女どうしという設定で「百合読み」するのもなかなかいいな、と思ったが、ともあれ初読で思い描いたキャラクター像はとびきりの美青年と美青年だった。やおい・BLといった世界に親しんでいる読み手がこの歌を読んだなら、何の情報もなくともかなりの確率でごく自然に男と男でこの光景を想像するのでは、という気がする。
 それはここで描かれている「人前では目も合わせず、言葉も交わさず、とても冷徹な関係を装いつつ、実は熱烈な愛情関係にある二人」が、BLの世界でよく好まれる、オーソドックスかつ王道な「萌え」の一形態だからではないだろうか。いわば「BLの定型」とでもいうべき、美麗で甘美な「お約束」の世界がここにはある。これまでBLの世界で愛してきたさまざまな二人を、読み手がそれぞれに投影することができる一首だと思う。

君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 北原白秋

 一夜を過ごした恋人を帰す、いわゆる後朝の歌だが、寂しいとか名残惜しいとかそういった感情はあまり伝わってこない。伝わってくるのは、むしろ満ちたりた幸福感だ。
 きっと透けるようにつめたい肌をして、言葉少なに静かに微笑む美青年の「君」なのだろうな、と思う。この「君」は時間が来たらあっさり寝床を抜け出してしまいそうだし、相手である歌の主体もまた、未練がましく引きとめたりせずさらりと送り出しそうな雰囲気がある。そうして帰ってゆく恋人のうしろ姿を窓から見送りながら、その背に降る雪が林檎の香りのようであったら、と夢想するほどに、きよらかで可憐な「君」なのだ。
 早朝のきびしく冷えた空気、雪を踏む「さくさく」という足音、そして幻の林檎の香り、とすがすがしく、かつ、五感に訴えかけてくるイメージがつらねられる。これは主体が「君」を近くに感じているゆえに生まれる臨場感ではないだろうか。暖かい室内にいながら、雪の舗道を歩く「君」に感覚を重ねてゆく。それほどに心の距離が近ければ「雪よ林檎の香のごとくふれ」というやさしい祝福とともに「君」を帰すこともできるだろう。
 それにしても、きれいな言葉だけがつかわれた端正な一首だ。こんなにうつくしいばかりの恋があるだろうか。恋人の帰路が悪路にならないよう雪がやむことを祈るのでも、逆にいっそ恋人の帰路を阻んで帰さないほどの激しい吹雪になることを願うのでもなく、「林檎の香のごとくふれ」という幻想につながるような恋。「君」が朝、帰ってゆくさきはおそらく自分の家で、日常で、生活だ。二人は非日常の、純粋な「恋の時間」だけをともに過ごしている。夜を過ごして昼が来るまえにわかれる間柄は、あるいは秘密の恋、忍ぶ恋という連想もさせるが、人目を避けねばならないという障壁がかえって二人の恋を俗世から遠ざけ、純度を保たせているのではないか、とそんなことも思ってしまう。
 幻想は遠ければ遠いほどうつくしい。だれかを好きになって、告白して、首尾よく交際がはじまって、一緒に過ごす時間が長くなり関係が深まるにつれて、一方的に相手に投影していた夢がひとりの生身の人間という現実にすりかわっていくことは避けられない。きれいごとだけでは真の意味で親密にはなれないし、きらきらした幻想がやぶれたあとのなまなましい生を越えてこそ、強い絆は結ばれる。とはいえ、ありえないとわかっているからこそ、ひたすらにうつくしい恋の夢は魅力的だ。恋の儚くうつくしい部分を言葉で結晶化させたような一首だと思う。

夜の新樹しろがねかの日こゑうるみ貴様とさきにきさまが呼びき 塚本邦雄

 昼間は陽を浴びてかがやいている新緑の若葉が銀色に沈む夜の森に、互いに言葉もなく立ち尽くしたふたりのあいだの、張り詰めた沈黙をどちらがさきにやぶるか、駆け引きのような時間。しびれをきらして口火を切ろうとしたとたんに、一瞬はやく相手が口をひらいて「貴様」と呼びかけてきた、その声が潤っていた。「かの日」という語や「呼びき」という過去形から、おそらくはこれは思い出のなかの過去の情景だ。
 現在の用法では相手を罵倒するときなど、敵対的な場面で使用されるイメージの「貴様」という二人称だが、『大辞林 第三版』(三省堂)によれば「男性がきわめて親しい同輩か目下の者に対して用いる語」であり、また旧日本海軍では親しい同級士官に対してよく用いられたという。おそらくはその影響で旧制高校の学生たちのあいだでも同じように使われていたのだろう、学習院高等科を舞台にした三島由紀夫『春の雪』でも松枝と本多が互いを「貴様」と呼び合っていたことなども思い起こされる。この歌の「貴様」もまた、親しい同級生だからこその呼称と読める。
 海軍にしろ、男子校にしろ、ホモソーシャルな関係性が生まれやすい場であり、BL的な物語の舞台として人気のある場でもある。既存の作品のキャラクターどうしの関係性を読み替えるいわゆる二次創作にとくに顕著なように、BL妄想はホモソーシャルをホモセクシュアルに読み替えていく遊びでもあることを考えれば、これはべつに不思議なことではない。「貴様」という軍隊式の強い呼称で呼び合う男子学生どうしというホモソーシャルな二人の、相手を呼ぶ声がうるんで、二人の関係が「男の友情」をこえた親密な関係に移行するまさにその瞬間がこの歌の場面ではないだろうか。その一瞬のゆらぎが「こゑうるみ」という語に凝縮されている。
 うるんだ声で「貴様」と呼びかけられ、そのひとことで関係が変容してしまったからこそ、「きさまが呼びき」の「きさま」はやわらかいひらがなで表される。二人だけでわかちあった、ささやかな、しかし決定的な瞬間は、おそらくは遠い日のことなのにあざやかによみがえる。「新樹」は彼らの若々しさだけでなく記憶のみずみずしさをも象徴しているようだ。たったひとこと、たった一瞬を三十一文字に焼き付けて、映画のワンシーンのような一首だ。
 なお相手を罵るニュアンスの呼びかけとして「貴様」を読むとき、初夏の銀色の夜の森は「明治~昭和初期の旧制高校」とはまったく違う時代や場所の背景にもなり得ると思う。男子校は男子校でも欧州の寄宿学校を想定してもよいだろうし、いっそ『ハリー・ポッター』シリーズのホグワーツ魔法魔術学校のようなファンタジーな世界観でも違和感なくはまるのではないだろうか。

行き先の字が消えかけたバス停で神父の問いに はい、と答えた 平岡直子

 起こったことがそのまま書かれているのに、肝心な、というか、読んでいるこちらが知りたいことは何ひとつ明らかにされていない。バスの行き先を主体は知っているのか? 主体はどこへ行こうとしているのか? なぜ、神父がいるのか? 主体とどういう関係なのか? そして神父の問いはどういう内容だったのか?
 これらのことは謎でもなんでもなく、歌のなかにいる登場人物たちには自明のことなのかもしれない。行き先の字が消えかけていても毎日使うなじみのバス停なのかもしれないし、神父は近所の教会で前を通るたびしょっちゅう挨拶を交わす間柄なのかもしれない。問いかけられたことも何ということのない世間話、それこそ「これからお仕事ですか」みたいな他愛もないことに「はい」と答えた、というだけなのかもしれない。
 けれど、そのように読むにはどうも引っかかる不思議さ、不穏さ、がこの歌にはある。気がついたらまったく見覚えのない道を歩いている。あたりの景色にも心あたりはなく、なぜ自分がこんなところに来てしまったのかも、よく思い出せない。それでいて、引き返したほうがいいのだろうか、という迷いもなく、妙な確信をもってひたすらすすんでいく。行く手にバス停が見える。黒い長い上着の人物が立っているのも見える。少しホッとして近づくが、停留所の古ぼけた案内板の文字は消えかけていて、読めそうで読めない。黒衣の青年の首にはほそい鎖に吊るしたちいさな十字架がある。おそらく神父であろう青年は穏やかに微笑みながらなにごとか問いかけてくる。うまく聞き取れず、何を訊かれたのかよくわからないのに、聞き返しもせずについ「はい」と答えてしまった。
 そんな、どこか夢のなかのようなシチュエーションを思い浮かべる。行き先のわからないバスが来るバス停も、聖別され世俗と切り離された存在である神父も、日常とはなれた世界の入り口を思わせる。小説ならば、ここから物語が展開する、その冒頭の場面のようだ。
 「はい、と答えた」の前の一文字あけが、訊かれたことがわからずに一瞬うまれる間のように感じられる。それでも「はい」と答えてしまう。とにかく「はい」と答えてしまった、という部分から思い出す恋愛映画がある。既婚者で子どももいる年上の恋人にリードされるかたちで恋愛関係になる若い主人公が、終盤、二人をめぐる状況が厳しくなってきたところで「自分の望みがわからないから(恋人のいうことに)なんでも『はい』と答えてしまった」というようなことを言うのだ。けれどランチのメニューすら決められなかったのに、恋人にまつわることなら迷わず「イエス」と言えた、というのは、それ自体が主人公の望みをあらわしている、と思う。
 ここがどこなのか、自分はいったいこのさきどうなってゆくのか、何もわからないままただ「はい」と答えて目の前の相手にゆだねてしまう。ここではないどこか、未知の場所へ連れ出してほしいという憧れ、そういうものを読み取りたくなってしまう一首だ。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智

『サラダ記念日』は刊行されたころに手にとってひととおり読んだものの、そのときはそれほど強い印象を受けなかった。「万智ちゃん」という具体的な名前が詠み込まれた歌があったせいもあるのかも知れないが、著者の近影やプロフィールをそのまま歌に投影して、かわいくて頭もよくて文才もある女の子の恋と青春か、自分とは遠い世界だな、と思っていた。「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答え」てくれる恋人なんてどうせ私にはいないし、自分のポケットに手をつっこんで寒い寒いってブツブツ言いながらひとりで歩いてるし、というひねた気分さえあった。
 だがそんな了見の狭い読みを捨て、たとえば冬の日の通学路を並んで歩く男子高校生ふたりを思い浮かべてあらためてこの歌に向き合ったとき、そこに立ちあがってくるものは一変する。鼻のあたまをあかくして、今日もさみいなあ、ほんとさみーね、と白い息で笑いあう少年たちのあいだにあるものは、確かにあたたかい。公園を散歩する二人の老紳士が、寒いな、ああまったく、と穏やかに微笑みあうのも、あたたかい光景だと思う。
 そもそもこの歌は「寒いね」「寒いね」と言い合う二人について一切限定されていないので、どのような二人をあてはめて読むことも可能なはずだ。お父さんとちいさな子どもや仲良しのきょうだい、あるいは家族や友人といった濃い関係でなくても、ごみを出しに出てきてばったり顔を合わせたご近所さんどうしや、駅のキオスクの店員と毎朝きまった時刻に立ち寄る通勤客など、いくらでもシチュエーションを思いつく。思い浮かぶさまざまな可能性のなかにBL的な光景を見ることだって、もちろん難しくない。
「寒いね」「寒いね」というなんでもないやりとりにたちのぼる感情の交流は、必ずしも恋愛に限定しなくてもいいし、恋愛関係を想定してもいい。どのような二人であっても、寒空の下で割って食べる肉まんからたちのぼる湯気のような「あたたかさ」は読みとれる。著者の情報を安易に重ねた読みを離れてはじめて、そのことに気づいた。理想の二人をキャスティングして景色を想像することで、私は自分の恋愛へのこじらせた劣等感を喚起させられることなく、うたわれている「あたたかさ」を素直に受け取ることができたのだ。

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